写真提供 河原井司さん
あなたは社会的補正作業という言葉を聞いたことがあるでしょうか?聞いたことがあるとすれば、大学で社会学を学んだ方でしょう。社会学者のゴフマンによれば、人間は社会で生活をしていくうえで、それが意識的であれ、無意識であれ、私はまともな人間であり異常者ではありませんというメッセージを他者に送り続けています。これを社会的補正作業と呼びます。ことに日本社会、特にほとんど同年代、同地域の人間で構成されている学校社会ではこの作用が強く働きます。
「私はそんな事いちいちしていない」という声が聞こえてきそうですが、決してそんなことは無いはずです。教室や会社の扉を思いのほか強く締めてしまい回りの人間がこちらを振り向いた時、あなたは「あっ」とか、「びっくりした」というような声を出すはずです。この場合、あたかも自分の意志でわざと扉を強くバタンと閉めるのも、誰からも聞かれていないのにわざわざ丁寧に「すみません。私は強く締めたつもりはなかったのですが、風の所為でこのような皆さんの注意をひくような音を立ててしまいました」と弁解するのも普通の対応ではなく、つまり異常だからです。
或いは電車やバスの列に並んでいて、忘れ物をしたことに気付いたとしても、何の前触れもなく唐突に列を離れる人は少ないでしょう。大抵、その必要がなくても、カバンの中をごそごそしながら「あれぇ、おかしいなあぁ」とか言いながら列を離れるはずです。
「でっ、それが走ることと何の関係があるの?」と思われるかもしれませんが、実は大いに関係があります。ポイントは次の二つです。1.社会的補正作業は無意識的でもあり、かつ意識的であるということ、2.それが社会的補正作業である以上、どのような場面でどのようにふるまうかは各々が所属する社会によって異なること。さて、では日本人的なあまりにも日本人的な社会的補正作業とは何かということですが、それは謝るという行為です。とりあえず、謝っとけば上手くいくみたいなところがあります。但し、謝っといてへらへらしていてはだめです。いかにも申し訳なさそうに、自分の非を認め、誠意をもって自分の犯した過ちを反省していますという態度でなければいけません。改めて書いてみると、難しそうですが、日本で生まれ育った人間なら多かれ少なかれ、学校生活で叩き込まれているので大丈夫です。これは決して先公どもに屈しない不良たちも同じです。寧ろ彼らこそこの謝るという社会的補正作業をよく学んでおり、ことごとく社会的補正作業を拒否し、先公どもが不愉快になるような態度をとり続けます。
日本人的社会的補正作業が及ぼすスポーツへの影響
さて、では具体的にこれがどのようにスポーツに影響するのか述べていきましょう。多くの選手は失敗に対してあまりにも自罰的すぎるということです。生真面目な選手ほどそうです。また上手くいかなかった選手が誰かに対して謝ることも多いと思います。野球のような団体競技のみではなく、マラソンのような個人競技でもしょっちゅう謝っている人がいます。というより、有名な選手が失敗を犯したときに誰に対しても謝らないケースを探す方が難しいくらいです。そしてこの社会的補正作業は個人の内面まで変えてしまいます。人間は異なる複数の自己イメージを維持することが出来ません。この自己イメージのことを心理学の世界ではゲシュタルトといいます。ゲシュタルトとはドイツ語で①姿、形、格好、体型②(識別できない)人影、人物という意味があります。本来、単なる社会的補正作業に過ぎなかったはずの行為もゲシュタルトの形成に大きく影響を及ぼします。皆さんは外面では肩を落とし、うなだれながら、みんなが笑っていても自分は一人笑ってはならないという状況の中で、内面では自身に満ち溢れ、次の練習や試合に向けて高い意欲を維持し、次は上手くやれるというゲシュタルトを形成することが出来ますか。おそらく不可能ですし、もし完璧に可能であるとすれば、それは統合失調症でしょう。そもそも統合失調症とは異なる複数のゲシュタルトを統合しようとし、社会生活に不具合が起きるものです。通常は一人一つのゲシュタルトしか維持できません。この典型的日本社会における社会的補正作業は個人の内面を「失敗してしまい、他者に迷惑をかけてしまった自分」、「失敗し、いつも支えてくださっている方々の期待を裏切ってしまった自分」という自罰的なゲシュタルトを形成してしまうのです。そして、いったんゲシュタルトが形成されてしまうと、その人が望むと望まざるとにかかわらず、ゲシュタルトに基づいて行為してしまいます。要するに、次も失敗し、他者に謝っている自分というものを実現するために行為してしまう可能性が高くなるのです。かねてから日本の長距離選手は短命で、過去に活躍していた選手も故障や一時的な不調をきっかけに走れなくなることが多いと思っていましたが、これは肉体的な不調をきっかけに形成された負のゲシュタルトによるものではないかと思っています。
ハクナマタタの精神
一方、ケニア人は問題なんて気にもかけないという気質の人が多いです。物質的に貧しい家庭で育った選手が多いためハングリー精神がどうのこうのといわれますが、『おしん』のような日本人好みの「堪え難きを耐え、忍び難きをしのび」という選手は少ないです。逆説的ですが、様々な問題を抱えた生活になれているため、問題など問題ではないのです。故障したり、練習で走れなかったり、レースで走れなかったりしても彼らは気にしません。スワヒリ語にはハクナマタタ(問題ない)という言葉がありますが、彼らはよくこのハクナマタタもしくは英語のno problemという言葉を使います。かねてから思っていたことですが、ケニアの選手に純粋なバーンアウトというのは少ないと思います。彼らが引退する理由はたいてい、すでに次のビジネスをするのに必要なお金がたまったから、若しくは一生暮らせるだけのお金がたまったからです。彼らの多くにとって、走ることはもともとお金を稼ぐ手段に過ぎないのですから、これは当然の行為であり、バーンアウトとは言い難いでしょう。起業を目標に働いていたサラリーマンが、必要な資金がたまった時点で退職するのはバーンアウトではないのと同じことです。そして実感として、30歳以上の現役ランナーの割合は日本人のそれよりも圧倒的に多いと思います。
あなたは責任が取れますか?
次の練習や試合に負の影響を及ぼすゲシュタルトを形成する前に、スポーツにおいては謝罪という社会的補正作業を忘れてください。或いはどこまでも社会的補正作業ということを意識して謝ってください。
「いやいや、自分はそんな打算的な態度で謝っているわけではない。心の底から自分の非を反省して謝っているのだ」と思っている人も多いかもしれませんが、それは勘違いです。多くの日本人も自分に不利益が被らないうちは簡単に謝りますが、ひとたび実質的不利益をこうむりそうになると(多いのは金銭的補償を求められると)、手のひらを返し自分の非を認めず、反撃に転じます。嘘だと思う人は今度一度、簡単に謝る店員さんに損害賠償を請求してみてください。奥から店長だか係長だかが出てきて、強硬な態度に転じるでしょう。ヨーロッパ社会では、自分の非を認めることとそのことに対して社会的な責任を取ることは同じなので、日本人のように自分が悪いと思っていないことに対しては謝りません。
あなたは本当にあなたの失敗に対して責任を取ることが出来るのでしょうか?本当に責任を取らなければならない場合、いやでも責任を取らされます。プロ野球選手には各球団のルールに応じて、罰金を払わされますし、実業団の選手なら退部か、解雇という結果になります。それであなたは責任を引き受けたのだから、もういいでしょう。毅然とした態度で次に向かえばよいのです。そしてほとんどの場合、あなたは責任の取りようがありませんし、誰かに謝る必要もありません。無意識と意識の間でうなだれたり、落ち込んでるかのようにふるまう必要もありませんし、そう言った自罰的なゲシュタルトによって自信を失う必要もありません。
今度失敗を犯したら心の中で、ケニア人のように’’No problem. Everything is gonna be all right’’ (問題ないさ、万事うまくいくよ)とつぶやいてみてください。次へと向かうエネルギーと自信がわいてくるでしょう。
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