マラソンレース当日の朝食の意味
何か月にもわたる準備の末のマラソンレース当日の朝食に皆さんは何を食べますか?お餅、うどん、パンといったところでしょうか。飲み物はオレンジジュースやコーヒー、緑茶などでしょう。人それぞれ好みはあると思いますがだいたい共通して言えることは炭水化物を多く含むもの、消化器系に問題を起こさないものだと思います。
では皆さんはこのマラソン当日の朝食にどのような意味を持たせていますか?「レース後半での筋グリコーゲンの枯渇を減らすため」という回答が多くを占めるかもしれません。がしかし、これは誤った考えです。レース当日の朝に食べた炭水化物がレース中にあなたを助けることはありません。計算に入れてよいのはレース前日までに食べた炭水化物のみです。通常、筋グリコーゲンの補充には最低でも一晩は必要で多めに見積もれば24時間は必要です。
ではマラソン当日の朝食の意義は何でしょうか。答えは意志の力を蓄える為です。脳は100%グリコーゲンによって働きます。レースにおいては「闘争か逃走反応」と呼ばれるノルアドレナリンやアドレナリン、コルチゾールなどのストレスホルモンの分泌を上昇させる反応が引き起こされます。そしてこのストレスホルモンが血糖値を上昇させたり、心臓の鼓動を速くしたりして、肉体が最大限の力を出せるように準備します。
「闘争か逃走反応」という言葉の由来は、原始時代、人間が危急の事態に瀕した時、生き延びるために闘うか逃げるかの選択肢を迫られたからです。そして、逃げるにしろ闘うにしろ自分の肉体的な限界に達するための体の反応が「闘争か逃走反応」です。このストレスホルモンの分泌を調整したり、闘う若しくは逃げるという強い意志を引き出したり、その意志を維持するのにグリコーゲンが必要とされます。
心理学者のマシュー・ゲイリオットは次のような実験を行いました。
研究室に人を集め、気が散るものを無視するタスクから感情を抑制するタスクまで、さまざまな種類の自己コントロールの実験を行い、各実験の前後に被験者の血糖値を測定します。自己コントロールの実験後の血糖値の下がり方が大きいほど、その人の次の実験結果は悪くなりました。あたかも自己コントロールのせいで体のエネルギーを消耗してしまい、またそのせいで自己コントロールが弱まっていくようでした。(ケリー・マクゴニガル著『スタンフォードの自分を変える教室』神崎朗子訳)
この実験の後、ゲイリーは被験者を二つのグループに分け、片方には血糖値を回復させるため砂糖で甘くしたレモネードを与え、もう片方のグループには人工甘味料で甘くしただけで糖質を含まない飲み物を与えました。そうすると、本物の砂糖を含んだレモネードを飲んだグループでは有意に意志力が回復し、人工甘味料を飲んだグループでは意志力が低下し続け、難しいテストを投げ出したり、機嫌が悪くなって他人に当たり散らしたりするなどの問題が生じることがわかりました。
ゲイリーのその後の研究では血糖値の低い人は固定観念に囚われる傾向があり、チャリティーに寄付をしたり他人を助けたりすることがあまりないことが分かったそうです。
教育心理学ではいわゆるキレやすい児童・生徒への対応が問題となりますが、キレやすい児童・生徒は清涼飲料水や菓子パン、スナック菓子等を好む傾向があります。これは精製された砂糖や小麦粉など高GI食品を大量に摂取することによってインシュリンが分泌され血糖値が急激に下がることでイライラしやすくなるのです。グリセミックインデックスについては、過去記事『グリセミックインデックス』に詳しく書いています。
意志力を維持するのに必要なエネルギー量
しかし、この説明では次のような疑問が湧いてくるでしょう。ではどれだけのグリコーゲンがあればいいのかという疑問です。実はペンシルバニア大学の心理学者ロバート・カーズバンの主張によれば、1分間の自制心を発揮するために脳が必要とするエネルギーはブレスミント(チックタック)の半粒にも満たないそうです。ですから、意志の力が試される場面に備えて、常にポカリスエットやチョコレートを携帯すれば良いという訳ではありません。
上記の説明と相反するような事実ですが、脳が本気を出せば、一日で原子力発電所一基分くらいのエネルギーを消費します。言うまでもなく、我々の消化器官の発達は脳の発達に追いついていません。そこで脳が何をするかというと出し惜しみです。脳はエネルギーが枯渇する前に出し惜しみをすることによって、エネルギーの枯渇を防いでいます。従って、意志力の低下(もしくは増大)のカギを握るのは貯蔵されているグリコーゲンの量ではなく、グリコーゲンが補充されているのか枯渇に向かっているのかという方向なのです。
サウスダコタ州立大学の行動経済学者X・T・ワンと心理学者のロバート・ドボルザークが19歳から51歳までの幅広い年齢層の65名を対象に以下のような意志力の実験を行いました。
その報酬として(筆者注 実験への参加の報酬)、参加者はすぐ翌日に120ドルもらうか、一か月後に450ドルもらうかど ちらかを選ぶことが出来ます。
このような実験をいくつか行うのですが、片方の報酬はもう片方に比べて常に少ない代わりに、多い方よりも早くもらえるようになっています。(中略)
どちらかの報酬を参加者に選ばせる前に、研究者たちは参加者の血糖値を測定し、各人がベースラインとしてどれくらいの資金を持っているかを見極めました。
第一回の選択を行った後、参加者には普通の砂糖入りのソーダ(血糖値を上げるため)か、カロリーゼロのダイエットソーダが与えられました。
そのあと研究者たちは再び参加者の血糖値を測定し、参加者に2回目の選択をするよう指示しました。普通のソーダを飲んだ参加者には、血糖値の急上昇が見られました。また、その人たちには目先の報酬を我慢してより多くの報酬を手に入れようとする傾向が見られました。
反対に、ダイエットソーダを飲んだ参加者の血糖値は下がっていました。この人たちの場合は、少額でもすぐに手に入る報酬を望む傾向が見られました。(『スタンフォードの自分を変える教室』)
ここで重要なのは貯蔵されているグリコーゲンの貯蔵量ではなくそれがどちらに動いたかです。南アフリカのティム・ノックス博士は、競技者が同じスピードを維持できなくなる点においても、筋肉や血液、筋グリコーゲン状態はまだその速度を維持できる状態にあることを発見しました。そのことから彼は競技者の競技能力の最大の決定因子は中枢神経であるという説を唱えました。
意志の力もそうですが、生理学的な競技能力の決定因子においても中枢神経は「ペース配分」していると私は考えています。ですから、マラソン当日の朝食の意義はこのペース配分を変えることにあると思っています。つまり、下降している血糖値を上昇させることで、脳のペース配分を変えるのです。マラソンそのものは42,195㎞走るだけですが、生命維持装置からすれば、次に食料にありつけるのが3時間後なのか3日後かわからないので血糖値の推移する方向は非常に重要な判断材料となります。筋グリコーゲンの貯蔵量は朝食をとるか否かに関わらず変わりませんが、ここで朝食を取らなければ脳はより早くグリコーゲンが枯渇すると判断し、それに応じたペース配分を行います。その結果、より手抜きをすることになるでしょう。
意志の力が低下したランナーに最もありがちな行為はオーバーペースでしょう。若しくは早くから集団の前に出てしまったり、集団から離れるタイミングを見誤って、必要以上に集団についてしまうことかもしれません。或いは充分な闘争か逃走反応が引き起こされず、あなたの気持ちとは裏腹に体はやる気がないかもしれません。
但し、実践的な観点から言えば、マラソン当日の朝食を抜いてスタートラインに立つ人はいないでしょう。ここで述べておきたかったことは、レース当日の朝食が筋グリコーゲンの補充を助けることはなく、脳のエネルギーにしても量が問題となるのではなく、低下していた血糖値を上昇に向かわせるだけで充分であり、腹痛のリスクを高めてまで食べる必要はないということです。これはレース中の給水にも言えることでベタベタするほど給水を甘くしたり、腹痛のリスクを高めてまでエネルギージェルを取る必要はないと思います。
中には給水や給食もマラソンの楽しみの一つと考えている人もいますので、そういう人たちがレース中に甘いものを食べながら走ることに関しては楽しんでいただければよいと思いますが、タイムを気にして走っている人は、リズムを失ったり、腹痛や転倒のリスクを高めてまで給水を取りに行ったり、ジェルを補給する必要はないということを覚えておいてください。
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