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3ヶ月のキセキ〜絶望の淵から日本の頂への挑戦記録〜


 2024年8月18日。よく晴れた空の下、ここ福井県営陸上競技場(通称:9.98スタジアム)に私はいた。母校洛南高校陸上部時代の一学年下の後輩・桐生祥秀が、日本人で初となる100mでの9秒台を出したことからこの名を冠した競技場。


「スタジアムの名前まで変えちゃうなんて、改めてほんま偉業よなぁ」


 まだおさまり切らない脈を抑えるかのように、自分の頭の中で自分との会話をする。脈が上がっていたのは、走ってきたからではない。ついものの30分ほど前、体中の血が滾り、心臓の鼓動が脳の中まで直接聞こえてくるような出来事があったからだ。それは、今自らがコーチする中学3年生の800mランナー・石原向規(こうき)が、ここ9.98スタジアムで行われた全国中学校陸上競技選手権大会(通称:全中)で、2番に入ったということであった。


「おめでとうございました」

「いやぁ本当に・・無事に終わって・・」


 向規のご両親、そしてお姉さんと合流し、表彰式を待つ。ご家族の表情からは安堵ともとれる感情を読み取ることができた。なにしろ、陸上競技に打ち込む子を持つ親にとって、夏の大会は大きな集大成。これが3年生ともなれば、大ごとである。今から15年も前の話だが、私の親は常にピリピリしていた。ある意味では、それは選手以上かもしれない。そんな精神状態が続いていた日々が、ひとまずは今日で一旦区切りがついたのだ。安堵の表情を浮かべないわけがない。


 数分後、大会本部席の方から、男子800m決勝で8位までに入賞した選手たちが表彰台の方へズラズラと列を成して歩いてくる。前から2番目を、向規が歩いてくる。表彰台へ登り、彼は立派な賞状とメダルを受け取った。


「おめでとう!」

「お疲れさん!よく頑張った」


 自分に向けられる賞賛の声に微笑むも、私には彼の表情は決して明るくは見えなかった。2位という位置に満足していないという表れなのだろうか。もしそうだとすれば、彼はきっと、いや、間違いなくこの先のステージでさらに強い輝きを放つことになるだろう。


 とはいえ、この光景を私は目を細めながら眺めていた。本当に、本当によくやったと思った。今、彼がこの場に立っているというのは、紛れもなく彼の天賦の才、そして血の滲むような努力、不安や焦りに惑わされずに貫いた鉄の意志による賜物であるが、とはいえ今ここに立てているのかどうかは紙一重であったことも忘れてはならない。そう、今から3ヶ月前のあの日、彼も私も、一度絶望の淵に立たされたのだから・・



ー3ヶ月前ー


 「向規は剥離骨折をしました。全治三ヶ月と診断され、夏の大会全般諦めるように告げられました。」


 いつものように朝練習を終え、シャワーを浴びて朝食を済ませて開いたPCの画面には、すぐにでも開いたPCを閉じ、これが夢であるならすぐに覚めてほしいと思う文字が並んでいた。今年、800mという種目で間違いなく中学陸上界の台風の目になるはずだった石原向規が、剥離骨折をしたというのだ。実はこの日の前日、夏の大会の前哨戦となる春季大会が行われており、私もこれを現地で観ていた。そこで彼は、2年生の時にマークした自己ベストを僅かに塗り替える1分57秒71で走破した。


 私はこの時点で確信した。向規は今年、全国にその名を轟かせることになると。私にはそう思えるだけの根拠があった。というのも、彼は今年の春を迎える前の3月〜4月にかけても丸1ヶ月間、腰の付近を剥離骨折していたのだ。私はこの4月に彼と出会い、コーチをすることになった。4月に入った時点では、まだようやくまともに運動ができるくらいになったところであり、ここからまずは体力を戻していって、夏まではレースを走るごとに調子を上げていけるように持っていこうと話していた。


 中学生の陸上競技の全国大会出場の方式は単純明快だ。全国大会に出場するための「参加標準記録」なるものが各種目ごとに設定されていて、指定の大会でその記録を突破することで全国大会への出場が認められることになる。例えば男子の中長距離種目であれば、800mなら2分00秒50、1500mなら4分8秒50、3000mなら8分57秒00を、指定の大会で突破した者のみに全国大会の出場権が与えられるというわけである。その指定の大会とは、7月の中旬〜下旬に行われるたった二つのレースしかない。つまり、7月に開催されるたった2つのレースのいずれかで、これまで何百、何千人もが跳ね返されてきた困難な記録を突破する必要があるのだ。


 向規が全国で輝くために、私が当初考えていたスケジュールはこうだ。8月18日の全国大会決勝で最高の状態にするために、8月7日の近畿大会は9割程度の仕上がりにする。そして、その前段階、つまり全国大会をかけて走る7月下旬の滋賀県大会については、8割の状態で走る。そして、4月〜6月については、何かのレースに調子をピタッと合わせるということはせず、とにかくしっかりと土台となるスピードと持久力を養成するというものだ。


 そしてこれは本人には伝えなかったが、このスケジュールの中で私が密かに思っていたのは、もし調子を合わせず、練習だけして出場する5月の春季大会で昨年2年生で記録した1分57秒90を更新するようなことがあれば、彼は今年本当に全国のてっぺんを取れるのではないかと考えていた。すると、それは現実のものとなった。5月17日に行われた滋賀県の春季大会で、彼は1分57秒74の自己ベストを出した。もちろん、そこに調子を合わせることなく。


 だからこそ私はこの日、今年少なくとも彼を全中の決勝には行かせなければ、もはや私はコーチとして大失格であると思った。コーチの仕事は選手を輝かせることであり、選手が本来持っている力をどこまで引き出してあげられるかが最も重要である。彼の持っている力は、少なくとも全国大会の決勝進出、その中でも優勝を狙っていくようなレベルであることは間違いなく、それができないのならば私の存在価値はない。そう思っていたところで、この滑り出し。春先の故障の影響はもう大丈夫だろうと、胸を撫で下ろして帰ってきた私は、何気なくInstagramを開いた。すると、向規がストーリーズを更新している。見てみると・・・


「最高で最悪のレース。駅伝まで我慢」


 鼓動が高鳴り、汗が額を伝った。駅伝まで我慢?どういうことだ、と。すぐに彼のお母様より連絡が入った。それが


「向規は剥離骨折をしました。全治三ヶ月と診断され、夏の大会全般諦めるように告げられました。」


 この連絡だったのだ。


 PCの画面を見ながら、私は頭を掻きむしった。彼は春季大会を機に、大きな故障をしてしまったのだ。3月に発症していた剥離骨折が、なんと反対足に起こってしまった。この春季大会の日に、100mのリレーのレースを走っていたようなのだが、不運にもそのレースにおいて起きてしまったのだ。彼がリレーに出るということを把握していなかったのは失態だった。知っていれば止めたと思う。いや、とはいえこれは学校のチームとして出場したものだったらしく、出ないほうが良いと私が言っても、出なければいけなかったのかもしれない。また、ランナーというのは往々にして、調子が良いときにはついつい欲張ってどんどん走りたくなるのが性である。中高生であれば尚更だ。それをうまく抑えてコントロールすることも、ジュニアコーチとしては心得ておかなければならない。それは自分自身、これまでの経験からよくわかっていたはずだ。にも関わらず、私は彼の故障を防ぐことができなかった。いや正確には、防ぐためのベストをつくしてあげることができなかった。責任感や後悔の念で落ち着かず、自分の心を落ち着かせるがために用もないのに何度も何度もペットボトルを手に取り、水を口に運んだ。


 私は一刻も早く向規と直接話がしたかった。どういう状態なのかを知り、本当に3ヶ月も休む必要があるのかどうか、また、夏は諦めるのかどうか、本人の気持ちも直接話して知りたいと思った。医師は常に安牌な策を言うものであるが、それが常に正しいとは限らない。特にスポーツ障害という面においては、時に安牌ではない策を取るべきシーンはあると考えている。彼から話を聞いて、なんとか夏の大会に向けてやれることはないのだろうか、その手立てを考えたかったし、彼がもし夏の大会の出場を諦めているなら、私は諦めるにはまだ早いと説得するつもりだった。


 1週間後。


 野洲川の堤防に私はいた。前から松葉杖をついた向規とご家族が歩いてくる。鼓動が少し早まる。もし意気消沈していたら、なんて声をかけようか。かつて私も競技者だった。だからよくわかるのだ。切羽詰まった時や、自分の中で整理がついていないことを、人からとやかく言われた時のあの心のざわつきを。良かれと思って言ってくれているのはわかるのだが、全て雑音に聞こえてしまい余計に心が乱れたということも何度も経験した。だからこそ、言葉選びはとても慎重に行かなければと思っていた。頭の中で自分との会話がグルグルと回っているー。


 その心配は杞憂に終わった。彼は思っていたよりも表情は明るく、元気そうであった。よかった。最後の大会を控えたこの夏前の時期に、松葉杖をつくような故障をした時の焦燥感や不安は計り知れない。私がその立場だったら、間違いなくこの世の終わりのような顔になるだろうと思い、心配していたのだが、彼の表情は明るかった。


 そして彼は言った。


「夏の大会、走りたいです」


 これを聞けただけでも、この日私は彼と会っておいてよかったと思った。医師の言葉は重い。医師から全治3ヶ月だと言われれば、それにすんなり従ってしまう人は少なくない。実際には、医師の言うことはもちろん参考にしても良いが、100%鵜呑みにして聞く必要はない。なぜなら、医師はランナーではないからである。医学的な見解と、実際に体に起こること、そして長距離ランナー目線で見た時に必要なアプローチはまた違うのである。


 だから私は、本当に3ヶ月も必要なことはないだろうと疑っていた。夏にもなんとか間に合わせることができるのではないかと思っていた。しかし、本人がそう思っていないのであれば、どうしようもない。私は、そこの意思を確認したかったのである。


 彼が夏に間に合わせたいという意志を確認して、私は彼にLLLTを試してみてほしいと言った。LLLTというのは赤外線の光線が出る機械であり、実際にLLLTに関する多くの研究結果では、骨の形成に必要な骨芽細胞の生成が有意に早くなったとするものもいくつもある。今回の故障は剥離骨折であり、LLLTは有効であると考えた。私は彼に二型池上機を貸し出し、とにかく暇さえあればたくさん当てまくるようにと指示をした。そして、松葉杖が取れるまでは、安静にして治療に専念し、松葉杖が取れたら徐々にウォーキングから始めて、ジョギング、流し、という流れで、徐々にフィットネスレベルを上げていこうと話をして、解散した。


 この時松葉杖をつきながら去っていく彼の後ろ姿を見て、私はかえって安心感すら抱いていた。きっと彼は戻ってきて、夏の大会を走るだろうと。正直、ここに根拠はなかった。しかし、彼の声と目には力が宿っていて、走りたいという彼の言葉には強い信念が感じられた。夏の大会を走るためにならなんだってするという覚悟が感じられた。その覚悟を見て私は「もしかしたら・・」と、何か大きなことが起こる予感を感じたのだった。



石原向規との出会い



 向規と私の出会いの中で、絶対に欠かせないとても重要な人物がいる。現在滋賀学園高校で陸上競技をしている佐藤 煉(れん)という少年だ。


 彼は私が初めて本格的にジュニアコーチングをするきっかけとなった少年であり、3年間陸上競技の指導に当たっていた才能ある若き選手だ。彼が中学生の頃、掲げていた目標は「全国大会(通称=全中)出場」であった。私が彼と出会ったのは、まだ彼が小学校6年生の終わりがけの時。初めて彼の走りを見た私は、衝撃を受けた。現在、陸上男子3000mSCで日本を背負って立つ若きエース・三浦龍司の中学時代の走りを彷彿とさせる体の使い方のうまさ、天性の動きの柔らかさ、バネ、惚れ惚れとする接地から足離れ・・


 才能というのはこういうことを言うのだと思った。ある人にはあって、ない人にはない。佐藤煉にはそれがあると一目見て思った。この子を3年かけてコーチさせてもらえるなら、最低でも全国大会に連れて行くくらいはできなければ、コーチとしての己を恥じるべきであるとさえ思ったことをよく覚えている。


 それから実際に指導にあたり、煉は順調にその走力を伸ばしていった。2年生の時には800mで滋賀県チャンピオンに輝き、3年生の春先には1ヶ月ほどの故障があったものの、二型池上機も使いながらトレーニングの疲労からも順調に回復して、最後の夏の大会を迎える直前には、全国大会出場を十分に狙える状態に仕上がってきていた。


 その夏の指定の大会の一つ、通信陸上という大会が4日後に迫ったある日、私は彼と共に競技場へ足を運び、最終調整の練習を行った。この日のメニューは600m+200mを100mjogで繋ぐというもの。通常であれば、4日前時点でのこの合計タイムが、レース当日に大体そのまま結果のタイムになるという、いわば800mの調整の定番練習である。


 彼はこの練習で600mは1分28秒、200mは27秒で走り、合計タイムは1分55秒となった。つまりうまくいけば1分55秒から、レース展開がうまくいかなくても2分は切れるだろうという目処が立った。全国大会の参加標準記録である2'00"50はほぼ間違いなく切れるだろうと私は確信した。3年間、私を信じてついてきてくれた彼を全国大会へと連れて行ける可能性が非常に高くなったことを確信し、私は半分だけ安心した。


 そうして迎えた勝負の日。通信陸上での800mで、私は衝撃を受けることになる。煉が全国大会の標準記録を切れなかったのではない。むしろ彼はしっかりとその記録を打ち破り、全国への切符を手にした。しかし、思いもしない、大きな衝撃がその日起こったのだ。


 当時まだ2年生ながら、前年の県内チャンピオンである煉を打ち破った少年がいたのだ。


 その少年こそが石原向規。彼は当時2年生ながら煉に先着し、全国大会出場を決めたのだ。正直、その時はまだ彼の凄さを見抜いてはいなかった。なぜなら、煉を見ることで必死で、彼の走りをじっくりを見ることはできなかったからである。


 しかし私は再度この向規に衝撃を受けることになる。それは、1ヶ月後に行われた全国大会だった。この全国大会でも、奇遇にも800mの予選レースで彼らは同じ組に入っていて、同じレースを走ったのだ。そして私はそこで、向規が2年生ながら800mで1分57秒90を記録し、決勝まであと少しのところに迫ったのだ(※当時出場選手中の2年生の中では2番目)。


 私は佐藤煉を3年間コーチして、彼にも相当な才能を感じていたが、向規に関してはそれを2年生の時点で超えてくるという異質さを感じた。ただ、当然ながらこの時点では彼のことをよく知らなかったし、また、コーチングに関しては煉を教え切ったら終わるつもりだったので、正直なところこの時点では「またすごいのが現れたな」というくらいにしか思っていなかった。



翌年の4月、衝撃は再び訪れる



 その後私は、煉を無事に中学卒業まで送り出し、私もここからはランナーとしてより高みを目指すべく集中することにしようと考えていた。正直、今年の3月時点まではもうコーチをやるつもりはなかった。


 しかし、3月に池上と共にとある元実業団監督をウェルビーイングに引き抜くべく、大雪の中約3時間に渡って河川敷を歩きながら工作活動をしたことがきっかけとなり、私はまだコーチとしての活動を継続することになった。詳細は話すことができないが、端的に言えば滋賀県を拠点として、ウチが中学陸上の強化に乗り出そうという話になったのだ。


 率直に言って、滋賀県の中学陸上界は環境が整っていない。例えば私の故郷である京都では、今ではいくつかの強豪クラブチームが存在していたり、また中学校の部活の顧問の先生方も陸上競技、とりわけ長距離種目の専門知識を豊富に有している方が多い。私が今住んでいる兵庫県も同様である。要するに、本気で陸上をやりたい中学生にとって、選択肢が多いのである。


 一方、滋賀県においてはそれがない。申し訳ないが、中学校の部活で、とりわけ長距離種目において専門的な指導ができている学校はほとんどないと言ってもいいだろう。これまで預かった色々な子たちから学校での部活のメニューを聞くとそれは明らかである。それくらい全く理に適った練習ができているところが少ないのだ。


 ここ最近でこそ、滋賀県の中学生のトップのレベルは上がってきているが、正直全体のレベルは高くない。これは、私自身が中学生の頃もそうだったし、また今引き抜こうとしている元実業団監督の方(滋賀県の方である)が中学生の頃もそうだったようだ。全体のレベルが低いのは、やはり専門性を持って教えられる人が少ないということが多いに関係していることは間違いない。


 加えて、最近は部活動に関しても先生方の働き方改革の問題で、十分な練習時間が確保できないケースも増えている。学校の部活だけでは満足な練習ができないケースが増えているのだ。つまり、もっと上を目指して頑張りたいのに、その環境がない、という子が少なからずいるのが滋賀県の現状なのである。


 これはかつて、中学生の頃の私自身が抱えていた悩みともリンクする。なぜなら、私が通っていた中学校には、そもそも陸上部がなかったからだ。陸上競技を本格的にやりたいのに、陸上部がない。実際その影響で中学2年生まではほぼ完全に独学と、あとは週末に民間の陸上クラブに行って練習をしていたが、ここのコーチも正直素人に毛が生えた程度のものであり、大した練習をしていたわけではなかった。


 そんな環境でやっていた私は、専門的なコーチに教えてもらえる環境を渇望していた。とにかく頑張れる環境を渇望していたのだ。そんな経験があるからこそ、滋賀県のこの状況を知り、さらにその強化に乗り出すという話になり、メインコーチとして私に白羽の矢が立った時、私は二つ返事でやると答えた。兵庫から滋賀まで毎週通うことになり、毎月自腹で赤字が出る活動にはなることはわかっていたが、それでもやる意義があると思ったからだ。


 そうして私は滋賀県の野洲川競技場という場所を拠点とした練習会を立ち上げた。早速FacebookとInstagramに広告をかけ、複数の中学生の親御様から問い合わせをいただいた。その中に、いたのだ。昨年、私の教え子を当時2年生ながら打ち破った、あの石原向規が。


 早速4月の頭から練習会は始まり、参加してくれた複数の中学生と、記録を伸ばしたい大人のランナーの方と練習が始まった。陸上経験がなく、これから頑張って速くなりたい子から、すでにある程度成績を出していて、さらに上のステップへ行きたい子まで広く集まってくれた。


 私は参加してくれた中学生全員と挨拶を交わし、話をした。向規君とももちろん、話をした。そこで彼から、2月から3月にかけて1ヶ月ほど剥離骨折で走れなかったということと、普段の練習が全く単調であり、変化がないということを聞いた。特に、練習については衝撃だった。こんな練習で、そんなタイムで走れるのか?と思わざるを得ないような内容だったからだ。ピーキングなんて概念はあったもんじゃない。年がら年中、ペース走と200m×5だけで記録を伸ばしてきたというのだ。


 もちろん彼の主戦場は800mである。となれば、もう少し専門的なトレーニングは必要になるし、また基礎構築期から特異期を経てレースに向かうというのは、これは800mであろうがマラソンであろうが共通事項だ。つまり、そう言ったものを全く無視してこれまで結果を出してきたというのだ。これから、どれだけの伸び代があるのだと、私は衝撃を受けたし、今年の夏は本気で全国大会優勝も狙える器だと思ったのだ。


3ヶ月のキセキ


 5月17日のレースで剥離骨折した向規は、その後二型池上機による治療や、医師の指導の元リハビリを行い、またパーソナルトレーニングなど、多くの力を借りながら快方に向かっていった。とにかく6月いっぱいかけてなんとかジョギングができるところまで戻れば、そこからは彼の元の力を考えるとそう難しい話ではないはずだと私は考えていた。


 実際、彼はここから驚異的な回復を見せる。6月1日には松葉杖が早速取れ、制限付きではあるが運動が許可された。そこからさらに12日後、6月13日の診療ではしっかりと仮骨が形成されたことで、ジョギングが解禁された。実に剥離骨折で松葉杖になってから、1ヶ月弱でジョギングまで漕ぎ着けることができた。私自身の選手として、そしてコーチとしての経験から、最悪ジョグさえできていれば最低限の体力と筋持久力はなんとか保つことくらいはできると思っていた。


 加えて、これは素質ある選手特有の特徴なのだが、故障した時の復帰段階において、案外サラッと負荷の高いトレーニングをこなせてしまうということがある。それは、紛れもなく「心肺機能の強さ」からくる。素質のある選手というのはほぼ例外なく心肺機能が常人と比べて圧倒的に強い。普通は故障で走れない期間がある程度続くと、復帰した当初は簡単に脈が上がり、呼吸が乱れるものである。故障前なら楽に感じていたようなペースでも、キツく感じるのである。


 向規は典型的な素質タイプであった。ジョギングに復帰して、そこからせいぜい1週間程度走ったくらいから普通に1500m〜3000mのレースペース帯で練習ができるくらいまで戻っていたのである。これだけの心肺機能の強さがあるのなら、むしろここからの練習はとにかく特異性(※レースに近い刺激の練習。通常はレース前の仕上げの時期に使っていく)の高い練習に特化していって、それ以外の日はあくまで体力維持の軽いランニング程度で良いのではないかと思った。


 しかし、そう思ったものの私は思いとどまった。この向規の素質ある特性こそが、3月そして5月と二度にわたる剥離骨折の原因だったのではないかと思ったからだ。というのも、素質ある選手は心肺機能が強いが故に、速いペースで走ろうと思えば走れてしまう。簡単に出力を上げることができてしまうのだ。ただ、それに体が耐えられるかはまた別の話。特に彼はまだ中学生。彼の心肺機能の強さに、筋肉や人体、骨などの強度が追いついていなかったのである。例えば軽自動車のボディに対して零戦のエンジンを積んでフルスロットルでアクセルを踏めば、ボディはたちまちバラバラになってしまうだろう。ここまで極端ではないにしろ、それに近いことが起こってしまう。エンジンが優秀すぎるが故に。


 だからこそまずは復帰に向けて、私は6月いっぱいは基本的にジョギングのみで終わるように指示をした。ただ、痛みの様子を見ながらジョギングも徐々にペースを上げていって、少しずつ中強度レベルのランニングにシフトするようにしていった。6月13日からジョギングを始め、そこから1週間後の6月22日、23日には40~60分程度のジョギングの後に、100m程度の軽い流しを入れられるようにもなった。ただ、この流しのペース感覚は、あくまで「3000mレースペース」を遵守するように指示をした。流石にいきなり800mのスピード感で走れば、まだ安定しきっていない骨がまた損傷するかもしれない。6月下旬でまた剥離骨折なんてことになったら、それこそThe ENDである。


 そしてその翌週6月29日には、3000mレースペースでの軽いインターバルトレーニングを実施した。400m×4本でペースは70秒、70秒休息だった。流石にこの時は70秒ペースがきつかったようだが、動きを見ていると着実に力を取り戻しているのがわかった。


 さらに1週間が経過。7月7日には滋賀県内での1000mレースが実施され。2分36秒をマーク。6月13日に復帰してからここまでにやった練習は、日々のジョギング〜中強度ランニングと流し、そして6月30日のちょっとしたインターバルのみ。しかもペースは70秒である。1000mでいえば2分55秒のペースなので、そんな練習だけで2分36秒で走ってきたのは、もはや私の理解は超えていた。


 そしてそこから2週間。7月20日には滋賀県内の夏の大会1戦目となる通信陸上大会の800mで1分57秒をマークし、早速全国大会出場を決め、翌日21日の1500mでは4分6秒とこれまた自己ベストをマークした。この時点でもはや故障の影響はほぼ忘れかけていたのだが、故障していたことが幸いしてか、まだ彼の状態はせいぜい7割程度だろうと予想していた。


 この時点で、1週間後には滋賀県の夏季総体の800mレース、そしてさらにその1週後には近畿大会の800mレースが控えていた。私は、彼が全国大会でてっぺんを獲るためにには、これら2レースをどう臨むのかが非常に重要だと考えた。滋賀県の夏季総体、そして近畿大会は、1日に800mの予選・決勝と2レース走る必要がある。それも、間はわずか2時間程度しかない。そんな過密スケジュールのレースだが、この2レースを究極的な特異的トレーニングとして使わなければ、正直全中には間に合わないだろうと思っていた。


「全中で勝つためには、夏季総体も近畿大会も、予選から全力でいかなあかん。中2時間で2本とも1分台で揃えられるくらいじゃないと戦えない」


 7月末の夏季総体を控えたある日のこと、私は向規にこう伝えた。彼の真骨頂はその精神力である。彼は実際にそれをやってのけた。夏季総体では予選から1分59秒、決勝でも1分58秒で完全勝利、そしてその翌週の近畿大会でも、予選から1分59秒、そして決勝では1分58秒で2着に入った。


 全国大会を目前に控え、私は彼になんとしても次の二つのことを達成させたかった。それが


・1分56秒87の滋賀県中学記録の更新

・全中の決勝へ進出し、表彰台へ(8位以内)


 この滋賀県中学記録というのは、現在800mで日本記録を保持しているスーパー高校生、落合晃(現:滋賀学園高校)が2021年にマークしたものだ。稀代の天才中距離ランナーが出した記録を塗り替えるのだから、それはインパクトがデカいだろう。そして、もう一つは全中の決勝に進むということだ。800mは予選を走った選手の中で上位8名の記録を出した選手だけが走ることができる。予選は17組あり、130名以上の選手が出場する。その中で8番以内の記録を出す必要があるので、争いは相当熾烈を極める。そして何より、予選のタイム順で決勝進出者が決まるということは、つまり予選から全力で走らなければならないということだ。その上で決勝で戦わなければいけないので、予選も全力、そして決勝も全力というのが全中という世界である。これを見越して私は、滋賀県大会、そして近畿大会と、本来向規の力であれば予選は手を抜いても通過できたにも関わらず、あえて予選から全力で走るよう指示を送ったのである。


 そして、全中の決勝の舞台で優勝争いをするためには、さらにもう一段階速い動きに体を慣らす必要があった。私がみる限り、8月7日の近畿大会が終わった時点では、400mは56秒だとまだ余裕が持てるが、55秒になると余裕が無くなりそうであった。この1秒のレベルを引き上げたかった。200mに関して言えば、27秒なら余裕がありそうだが、26秒だと余裕がなさそうだった。しかし全中で勝つなら、やはり26秒で余裕を持っていけるくらいのスピードの動きは欲しいと思った。


 そのために近畿大会が終わってからは、とにかく速い動きに体を慣らす練習と、疲労抜きの練習の二極化を徹底し、やる日はとことん出力を上げる。やらない日はとことん休むという、完全に0か100かという練習に切り替えた。はっきり言ってこれは極限のやり方だ。最終目標のレースが近いからこそ通用するやり方だが、本当に狙ったレースに最終的に合わせるならば、こう言ったやり方が非常に効果的である。


 そうして入れられる限りの刺激を入れて、抜ける限り疲労もぬきながら、8月17日、全中の予選レースのその日を迎えた。



迎えた全中の日



 笠原桜公園での練習会を終えた私は、車を飛ばしていた。「ああ、懐かしいな」高島の萩の浜水泳場の景色を見ながら、私はこう呟いた。この場所は私がYouTubeチャンネル「らんラボ!」を始めた初期の頃によく動画撮影を行なっていた場所だった。土日でも比較的人が少なく、動画収録にはもってこいの場所だったのだ。あの頃は後にこんな、中学生を指導して、そしてかつて15年前に自分はあと1.5秒のところで逃した全中に、指導者という立場で行くことになるとは思ってもいなかった。


 山を越えて敦賀を抜け、鯖江に入る。時間は14時。向規の予選のレースはおよそ18時の予定だったが、ウォーミングアップの前にも少し話しておきたかった。普段と違う場所でのレースの時は、普段見る顔を見て、少しでも声を交わしておく方が、確実に平常心を保てるものだ。ギアを上げながら山道を少し飛ばし気味に駆け抜けていった。


 15時。私は9.98スタジアムに到着し、アップ用に用意されたサブトラックに向けて歩いていた。メインスタジアムからは場内アナウンスが聞こえている。


「400mの通過は、67秒」


 通過タイム的に、今はまだ女子800mの予選が行われているのだろう。よかった、間に合った。向規はまだアップには行っていない。サブトラックの入り口にいておけば、話せるだろう。そう思って歩いていると、ご家族と出会った。


「遠いところ、ありがとうございます」

「とんでもないです。いよいよこの日が来ましたね」

「そうですね、もう緊張が・・」

「本人の様子はどうでした?」

「今回は割と落ち着いていましたよ。去年全中に出た時なんかもう、右手と右足が一緒に出て歩いていたものですから・・」


 向規は意外にもレース前になるとかなり緊張するタイプである。大事なレースが近づくと、自宅でも落ち着きがなくなることもしばしばあるようであるが、今回はいつもよりも落ち着いていたということを聞き、私は安心した。ご家族と話をしていると、遠くから向規が歩いてきたのが見えた。


「今日はどうかな?」

「めっちゃ緊張します」


 緊張という言葉は嘘ではないと思った。しかし、それ以上に彼の目の奥には、絶対的な自信が潜んでいることを感じ取ることができた。


「それはいいことやな。適度な緊張は力になる。今日の予選通過のボーダーはおそらく、1分56秒〜57秒になると思う。1分55秒台が出れば間違いなく決勝に行ける。57秒かかるとだいぶ怪しくなるから、とにかく56秒台前半は出しておきたい。ペースとしては、最初の200mは27〜28秒、400mは56~7秒、600mは1分27秒、そしてラスト200mは死ぬ気で上げて、1分56秒でゴールしよう。」

「頑張ります。アップは何をしたらいいですか?」

「20分程度ジョグをしよう。最初はキロ5分から始めて、徐々に4分まで上げていって欲しい。アップの時点で軽く心肺刺激を入れることで、呼吸筋もほぐれるし、ちょっとだけビルドアップしてほしい。その後に、流しだな。最初の200mのイメージを持って行うように」


 向規はサブトラックへと入っていった。そして、ご家族はスタンドへ移動された。私はラスト200mに差し掛かる第3コーナーで応援する予定で、移動しようかと思ったが、やめた。最終コールの前にもう一度、向規に声をかけておきたかったからだ。招集所の入り口前で待機しながら、競技場のモニターに映る800m予選の他の組のレースを見て、各組のタイムを集計し、予選通過ラインをメモしていた。


 およそ40分後。アップを終え、最終コールに向かう向規が招集所の入り口に現れた。


「今のところ予選通過ラインは、1分56秒80やな。確実に安心できるよう、1分56秒切ってしまおう。そのためには、とにかく600mを1分27秒で通過すること。これだけはなんとしてでも確保してほしい。それができれば、1分55秒で上がれるから」


 そう声をかけ、拳を合わせて彼を見送った。緊張はしているが、どこか自信に満ち溢れた気持ちを背中から感じることができた。


 そして18時。向規のいる第16組のレースが始まる。彼の実力なら問題なく予選を通過できるはずだが、とはいえそんな保証はどこにもない。また、これは全国大会。全国各地で将来を嘱望された中学生たちが集まってきているレースであり、少しのミスで予選敗退してしまう可能性は十分にある。彼は2年生の時点で全国大会に行っていて、決勝進出まであと少しのところだったのだ。それを今年コーチすることになって、予選通過ができないなんてことになれば、私はコーチとして失格である。何より、向規とそのご家族を失望させてしまうことになる。これだけ信じてきてくれたのだから、なんとかそれが結果に表れてほしい。そんな想いで私はトラックを見つめていた。


 向規たちがスタートラインについた。「On your marks」の掛け声とともに、会場が静まる。またも胸の鼓動が高鳴る。自分の呼吸の音が聞こえる。とても静かだ。右手にもつメガホンが、強く握りしめていることで形が変形している。今か、今かー。


 パン!!号砲がなった。第二コーナーをまわり、バックストレートへ。向規は事前に打ち合わせた通り、2番手付近の位置をとると思ったのも束の間、私のいる第3コーナーの手前で先頭を奪う。


「落合の記録を越えるぞ!落合との勝負だ!!」


 颯爽と目の前を通り過ぎる向規に、私は全力の声をかけた。彼はそのまま先頭で走ったが、一周目400mを通過する直前に先頭を奪われる。いや、相手選手が上げたのではない。おそらく、向規が落ちていた。400mを57秒で通過すると、向規は一瞬先頭から離れかけた。2m,3mと、距離が開く。


「向規!そこでつく!!そこで離したら絶対あかん!!!」


 ここが分かれ道だと思った。分かれ道というのは、そのレースで勝てる、勝てないもそうだが、選手としてこのラインを超えられるかどうか、というところがあるのだ。必ず、誰しもにそういうラインがある。生きるか、死ぬか、というものに近いかもしれない。そこを超えることができない、もしくは超えたとしても死んでしまう(=陸上の場合で言えば、失速)というのが、大半の選手である。しかし、そこを超えられる選手が、確かにいるのだ。それが、世代でトップを走るような選手であり、ゆくゆく日本を背負って立つような選手なのだと思う。


 向規は、そこを超えた。ラスト300mを切って、一気に加速。そしてまたも私の目の前、第3コーナーの手前で先頭を奪い返し、600mは1分27秒で通過。


「守るものはない!全部出し切れ!ぶっ倒れてもいいから最後全部出して捲ってこい!!!」


 ありったけの声を絞り出し、声をかけた。それに応えるかのように彼は最後の200mを27〜28秒で上がり、見事1分55秒85という記録でゴールした。これは従来の滋賀県中学記録である1分56秒87を超える大記録であり、結果的に彼は予選を全体2位で通過することができた。


「おめでとうございます」

「よかった、とりあえずほっとしました」


 スタンドへ戻り、ご家族と話す。決勝に行けるかどうかというのは、どれだけ力があったとしても約束されたことではなく、わからない。だからこそ、かなりの緊張が強いられることになるし、また実際に通過という結果を見るまでは、気が休まらないものである。しばらくすると向規がこちらに向かってきた。


「お疲れ様。よく頑張った!」

「めっちゃきつかったです。最後の100mは前が見えなかった」


 そう話す彼の顔は、いつもよりも血色が悪い。少し青い顔をしていて、目は虚気味だった。軽い酸欠状態に、彼は陥っていた。無理もない、生きるか死ぬかのラインを超え、その限界に先に到達したのだから。しかし、その「絞り出す」という感覚というのは、本当に生きるか死ぬかのラインを経験しないと体で覚えることができない。おそらく彼は今回、それを肌で感じ取ったはずだ。これからのレースでも、絞り出す感覚を再現することができれば、きっとさらに高みに到達することができるだろう。というよりもまずは、明日行われる決勝の舞台で、その感覚を再現できれば優勝する可能性もあるだろうと、私は思っていた。


 彼に20分ほどゆっくりとダウンジョグをするように指示をして、私たちは解散した。ホテルに戻り、私はすぐに800mレースの決勝進出者たちのレースを見返した。そして、有力選手のレース展開の特徴を掴んだ。おそらく、前半から先行して、早めにスパートをかけてくるだろうと予想がついた。最も有力だったのは、群馬県の布施川という選手だ。布施川のレースを見ると、前半からある程度自分でレースを作り、ラスト200m付近から抜け出して勝つという特性が見られた。それであれば、決勝ではとにかく最後の100mまで布施川に小判鮫のごとくひっついて行って、ラスト100mで溜めた足を爆発させることができれば、勝算があるのではないかと考えた。


 逆にいえば、最後の200mで勝負を仕掛けてしまうと、向こうに分があるように思った。というのも、布施川は関東大会で1分53秒という中学歴代8位の記録で優勝しており、出場選手の中では頭ひとつ抜けていたからだ。向規が5月に故障していなければ、もう少し地力をつけて戦えた可能性は十分にあるが、今持っているもので戦うなら、最後まで利用するだけ利用して、布施川が消耗して弱ったところに最後の100mで勝負をかけるしかないと思った。


 翌朝。いつもなら教え子の大事なレースの前はあまり眠れない私は、この日はなぜはぐっすりと眠っていた。前日の運転疲れだろうか、はたまた、滋賀県中学記録を更新したということと、決勝への進出となんとか最低限の仕事はできたという安堵感だろうか。すぐに着替えて朝練習を済ませ、朝食をとってホテルを後にする。程なくして競技場へ到着し、前日と同様、サブトラックの前でアップに向かう向規を待った。


 12時にアップに行くと聞いていたものの、12時になっても向規は現れない。ただ、レースの時間は13時45分。召集の時間も13時15分だから、12時のアップはむしろ早すぎるのではないかと思っていた私は、ちょうど良いやという感覚でのんびりと彼を待った。12時15分ごろになり、日傘を風に煽られながら、傘の向きに悪戦苦闘する向規が歩いてくるのが見えた。


「おはよう。昨日の疲れはどう?」

「おはようございます。全然疲労ないです。」


 前日の予選の時よりは、明らかに表情に余裕が見えた。やはり、前日に良い記録を出せていたからか、気持ち的にも勢いづいているのがよくわかる。むしろより強固になった自信が、その瞳の奥から窺える。私はアップに関して前日と同じ指示を出し、彼がアップに行く後ろ姿を見送った。


 40分ほど経ち、アップを終えた向規がそろそろ招集所に到着するであろう時間に、私はまた待ち構えていた。ここ9.98スタジアム会場には、風が強く吹いている。またしても風に日傘を煽られ、今度は完全に蝙蝠傘になってあたふたする向規の姿が見えた。そのなんとも言えない愛らしい間抜けさ加減は、これから中学生の日本一決定戦に臨むエリート選手にはとても見えないものであった。


「傘、大丈夫?ひっくり返りまくってるやん」

「なんとか大丈夫です」


 いつものノリで笑い合う。蝙蝠傘のおかげで、レース前特有のピリピリした雰囲気が自然と消えて、彼の肩の力が抜けたように見えた。


「ラスト100mまで溜める。ラスト100mで爆発する。そして、ラスト100mまではとにかく、先頭をロックオンできる位置にいるように。あと、予選も全部見た上で言うけれど、言うて全員本気や。余裕残してる選手なんか誰もいない。みんな余裕がない中で戦ってる。だから、誰が勝ってもおかしくない。誰が勝ってもおかしくないからこそ、ちゃんと最後まで脚を溜めたやつが勝つ。だから、最後の100mまでは『俺、まだ本気出してへんし』くらいの気持ちで走ったらいい。決勝走る中で一番強いのは、俺は向規くんやと思うよ。」


 彼にはこう伝えた。とにかくラスト100mまではまだ本気出してないから、という気持ちで走りなさいと。ただ、いつでも先頭まで追いつけるぞという位置にはいておく必要もあると。しかし、彼は1周目の動きに一抹の不安を抱えているようだった。400m時点でハイペースだった場合、先頭が見える位置にいられるかわからない、とのことだった。


「最初の400mを56秒で入る練習はしてきているのだから、自信持っていきな」


 最後にに私はそれだけを伝えた。1周目がどれくらいの位置で帰ってくるかによって、順位は決まるだろうと思った。私としてはできるだけ、2番手か3番手あたりにはつけておいてほしいと思っていた。招集所に向かう向規と拳を合わせ、彼を見送った後、私たまた第3コーナー、ラスト200mの位置でメガホンを持って待機をした。


 13時45分。女子の800mの決勝が終わり、向規の出場する男子800m決勝の時間がやってきた。日差しは昨日より強い。背中から噴き出した汗が止まらず、着ているTシャツが背中に張り付いてくる。ただ、いつもならそれに加えて手汗が吹き出してくるほどかなり緊張するものだが、この時はそれはなかった。むしろ、かつて競技者時代の自分が絶対に成し得なかった、全国大会の決勝という舞台で、今教えている子が本当に勝ってしまうかもしれないという高揚感が勝っていた。


 選手紹介が行われ、いよいよスタートの時刻となった。シーっというアナウンスに合わせ、会場が静まり返る。私も固唾を飲んで見守った。汗が頬を伝った。その瞬間、パン!と号砲が鳴り、レースが始まった。彼は何やら後方に位置取ったようだ。最初の200mを通過し、私の前を通る。


「溜めるぞ!溜めるぞ!とにかく1周目は溜める!溜めて、溜めて、2周目は100mごとにギア上げていくぞ!」


 腹の底から声を上げた。そのまま300m、そして400mと走っていったが、この時点では私が思っていたよりも彼は後方にいた。まだ後ろから2番目あたりにつけていて、先頭からは少し離れつつあったのだ。


「向規!そんな所にいたらあかん!!もう一つ前!もう一つ前や!!」


 喉がもう潰れかけていた。しかし、これは今すぐに届けなければ全く意味のない言葉だ。すぐ近くに来てからではもう、遅い。トラックの反対側にいる彼に届くように、全力で声を上げた。すると、また予選と同じことが起こった。ラスト300mを過ぎてから、彼は自分の位置を一つ、また一つと上げていった。そして、最後の200m。彼は4番手まで上がってきた。


「おし!最後や!最後後悔するな!全部だそう!お前の全部を見せてくれ!」


 もはや素人のような声掛けだった。しかし、もうあとは全てを出し尽くしてもらう他ない。正直この時点で先頭を走る布施川とは少し差が開いており、追いつくのは少々厳しいかと思った。しかし、一つでも順位を上げてゴールしてくれたら、それは彼にとってとても大きな価値を持つことである。陸上人生は中学で終わりではない。高校、大学、社会人と続いていく。これからの陸上人生において、ひいては人生全体において、最後の最後まで足掻いて、一つでも良い結果を得たという経験は絶対に生きると思った。だからこそ、ゴールラインを駆け抜けるまで絶対に諦めず、少したりとも緩めずに駆け抜けて欲しいと思った結果、この掛け声になっていた。


 最後の100mで向規は圧倒的なスパートを出した。4位だったところから、なんと2着まで上がったのだ。布施川には届かなかったものの、大した結果である。正直、一周目通過時点で後ろから2〜3番目にいた時は、これは上位入賞は難しいのではないかと思った。全国レベルの選手が集うレースで、後半は皆も上がっていくわけで、その中で向規だけが一際上がることは難しいのではないかと思った。しかし、彼は最後の100mで奇跡的とも言える猛烈なスパートを繰り出した。このスパートは、故障からの3ヶ月間の軌跡を飾る、向規の意地と意思をひしひしと感じるものであった。


「おめでとうございました」

「いやぁ本当に・・無事に終わって・・」


 レースを観終えた私は、すぐに表彰台前に駆けつけた。そこで向規のご両親、そしてお姉さんと合流し、表彰式を待つ。ご家族の表情からは安堵ともとれる感情を読み取ることができた。なにしろ、陸上競技に打ち込む子を持つ親にとって、夏の大会は大きな集大成。これが3年生ともなれば、大ごとである。今から15年も前の話だが、私の親は常にピリピリしていた。ある意味では、それは選手以上かもしれない。そんな精神状態が続いていた日々が、ひとまずは今日で一旦区切りがついたのだ。安堵の表情を浮かべないわけがない。


 数分後、大会本部席の方から、男子800m決勝で8位までに入賞した選手たちが表彰台の方へズラズラと列を成して歩いてくる。前から2番目を、向規が歩いてくる。表彰台へ登り、彼は立派な賞状とメダルを受け取った。


「おめでとう!」

「お疲れさん!よく頑張った」


 自分に向けられる賞賛の声に微笑むも、私には彼の表情は決して明るくは見えなかった。2位という位置に満足していないという表れなのだろうか。もしそうだとすれば、彼はきっと、いや、間違いなくこの先のステージでさらに強い輝きを放つことになるだろうー


To be continue…


あとがき


 この3ヶ月間、決して楽な道のりではなかったのですが、ひとまずは全国大会で準優勝という素晴らしい結果で集大成を終えることができたこと、とても嬉しく思っています。現在、滋賀県で中学生のコーチをさせていただいており、今回は3年生の石原向規くんをクローズアップして描いたわけですが、今年は3年生が4名在籍しており、その中でも石原くんを含む3名の選手が夏の陸上大会へ臨みました。一人は全国大会を目指し、惜しくも届かずでしたが、近畿大会へ800mで出場。そしてもう一人は、同じく800mで近畿大会出場を目指しましたが、故障に悩まされ残念ながら出場は叶わず。しかし、従来更新できていなかった1500mでの自己ベストを大幅に更新し、底力を見せてこれからのキャリアに弾みをつけてくれました。


 作中にも記しましたが、3年生にとっての夏の大会はとりわけ特別なものです。人生をかけて走ると言っても過言ではないでしょう。それくらい、夏にかける想いというのは大きいものです。だからこそ、本人も親御さんも、特に春から夏にかけての期間というのは気持ちが大きく揺れ動き、休まる時はないものです。そんな中で私をコーチとして選んでくださって、一生懸命ついてきてくれたこと、心から感謝の想いで溢れております。


 特に向規くんも、もう一人3年生女子でシンスプリントに悩まされていた子もいて、この3ヶ月間で故障というのはとても精神的にも絶望感が大きく、辛いものだったと思います。そんな逆境にも負けずに夏の大会まで駆け抜けたことに敬意を表したいと思います。


 長距離走やマラソンで発生する故障には、走っても良い故障とそうではない故障があります。走っても良い故障というのは、早い話が筋肉のハリや凝りからくる慢性的な故障です。こういった故障は、トレーニングによって酷使した筋肉の中に強いコリやハリができて、それによって血流が悪くなり、ある部分が局所貧血を起こすことによって酸素の運搬がなされなくなって、最終的に炎症が起きて痛みが発生するというものです。


 こういう場合の故障においては、とにかく炎症反応そのものを止めると同時に、痛みが出ている箇所や、その周りの筋肉群をほぐしていくことが重要です。特に、周りの筋肉を根気よく触ることは大事で、なぜなら慢性的に痛みが出ている場合、その周りの筋肉のどこかに強いはりやこりがある場合がほとんどであり、そこをほぐし切ることで大体の場合は痛みがほぐれていくからです。


 逆に言えば、筋肉がほぐれることが重要なので、必ずしも走ることをやめるのが良い案とは言えません。軽く走って筋肉がほぐれるのであれば、その方が治りが早くなることもあります。また、試しに走ってみて、走ってみた結果走り出す前と比べて痛みが強くなっていないのであれば、走りながらでも治せるケースが非常に多いです。むしろ、こうした故障の場合、低度で慢性的な炎症反応が起こっているので、中枢神経が痛みのある箇所を「異常事態」だと認識しないため、免疫細胞が送られず、自然治癒が進まない傾向にあります。よって、ただ休むだけではなかなか治りません。


 対して、走ってはいけない故障というのは骨の損傷など、物理的に修復が待たれる故障です。こういう故障は基本は安静にすべきであり、医師の言うことを聞いた方がいいケースでもあるでしょう。骨の場合は、やはり骨がくっついたり、新しく仮骨が形成されるまでの間、ランニングによる接地の衝撃は与えない方が治りが早くなるのは間違いありません。


 ただ、こういった故障の場合は炎症の度合いも大きく、自然治癒も積極的に進むため、休むことで治癒が促進されやすく、LLLTを使うことで炎症を抑え、骨芽細胞の生成を助けることもしやすいでしょう。向規くんの場合はまさにそう言った状態でしたので、私は迷わず彼に二型池上機を貸し出したというわけです。


 実際私もこの二型池上機にはこれまで、幾度となく故障の危機を救ってもらってきました。そしてこれを書いている現時点でも、また一人二年生の男の子で腰を疲労骨折してしまった子がいましたので、つい先日貸出しました。お医者さんからは3ヶ月の運動禁止を言い渡されていますが、きっとそれよりも早く戻ってくることでしょう。


 そんな二型池上機ですが、実は今新型を開発することに成功し、8月28日に三型池上機を30台限定でリリースすることになりました。こちらの情報はメルマガで出していきますので、ぜひリリースを楽しみにお待ちいただけましたら幸いです。


 今回はいつもと少し違って、少々小説チックに書き上げましたが、楽しんでいただけていましたら幸いです。今回は中学生がモデルになりましたが、実は大人のランナーさんのノンフィクションストーリーもこれからたまに執筆できたらと思っています。事実は小説より奇なりというのはまさにそうだと思っていて、私も色々なランナーさんと接していますが、ランナーとしての人生そのまま小説にできそうな方がたくさんいらっしゃるのです。そういう話を、どんどん小説にしてお届けしたいと思っています。こちらを読んでみて面白かったという方は、よろしければぜひコメントを残していただけると嬉しいです。


 そして、滋賀県で陸上競技の中長距離種目に取り組んでいるお子さんをお持ちの親御様へ。石原向規くんも参加する野洲川のらんラボ!の練習会にご参加されたい方は、ぜひお気軽にお問い合わせください。毎週末の実地での練習に加え、平日も含めたトレーニング相談、メニューの提案、その他ご相談ごとなど喜んで対応します。


 月額参加費用は1万円(税込)です。ですが、初めの1ヶ月間は無料体験にしています。練習体験にご参加されたい方は、ぜひこちらのお問い合わせフォームから「体験会希望」と入れてお送りください。その後私から詳細をご連絡させていただきます。




ウェルビーイング株式会社副社長

らんラボ!代表

深澤哲也



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ランニング書籍

講師紹介
​ウェルビーイング株式会社代表取締役
池上秀志

経歴

中学 京都府亀岡市立亀岡中学校

都道府県対抗男子駅伝6区区間賞 自己ベスト3km 8分51秒

 

高校 洛南高校

京都府駅伝3年連続区間賞 チームも優勝

全国高校駅伝3年連続出場 19位 11位 18位

 

大学 京都教育大学

京都インカレ10000m優勝

関西インカレ10000m優勝 ハーフマラソン優勝

西日本インカレ 5000m 2位 10000m 2位

京都選手権 10000m優勝

近畿選手権 10000m優勝

谷川真理ハーフマラソン優勝

グアムハーフマラソン優勝

上尾ハーフマラソン一般の部優勝

 

大学卒業後

実業団4社からの誘いを断り、ドイツ人コーチDieter Hogenの下でトレーニングを続ける。所属は1990年にCoach Hogen、イギリス人マネージャーのキム・マクドナルドらで立ち上げたKimbia Athletics。

 

大阪ロードレース優勝

ハイテクハーフマラソン二連覇

ももクロマニアハーフマラソン2位

グアムマラソン優勝

大阪マラソン2位

 

自己ベスト

ハーフマラソン 63分09秒

30km 1時間31分53秒

マラソン 2時間13分41秒

​ウェルビーイング株式会社副社長
らんラボ!代表
深澤 哲也

IMG_5423.JPG

経歴

中学 京都市立音羽中学校

高校 洛南高校

↓(競技引退)

大学 立命館大学(陸上はせず)

​↓

大学卒業後

一般企業に勤め、社内のランニング同好会に所属して年に数回リレーマラソンや駅伝を走るも、継続的なトレーニングはほとんどせず。

2020年、ウェルビーイング株式会社の設立をきっかけに約8年ぶりに市民ランナーとして走り始る。

感覚だけで走っていた競技者時代から一変、市民ランナーになってから学んだウェルビーイングのコンテンツでは、理論を先に理解してから体で実践する、というやり方を知る。始めは理解できるか不安を持ちつつも、驚くほど効率的に走力が伸びていくことを実感し、ランニングにおける理論の重要性を痛感。

現在は市民ランナーのランニングにおける目標達成、お悩み解決のための情報発信や、ジュニアコーチングで中学生ランナーも指導し、教え子は2年生で滋賀県の中学チャンピオンとなり、3年生では800mで全国大会にも出場。

 

実績

京都府高校駅伝区間賞

全日本琵琶湖クロカン8位入賞

高槻シティハーフマラソン

5kmの部優勝 など

~自己ベスト~

3,000m 8:42(2012)
5,000m 14:57(2012)
10,000m 32:24(2023)
ハーフマラソン 1:08:21(2024)

​マラソン 2:32:18(2024)

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